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夢における「過去」

 夢のなかで映画を見ていた。上映時間がとてつもなく長い大作映画だ。自分はその映画を過去に一度見たことがある。ただし、途中でトイレに立ったので少しだけ見てない部分もある。その映画を、今度は友人たちといっしょに見ている。以前にも見ているから次にどんなシーンがくるかわかる。
 さあ、バーのシーンだ。斜め上方からのショット、奥(画面右上)にカウンター、手前に古びたテーブルや椅子がいくつか。店内は狭い。黄昏時の光がさしこんで画面全体が黄色っぽい陰影を作っている。これはスタジオ撮影だが、次は外国ロケのシーンだ、さあ見てろよ、緑の密林と遺跡建築が・・・・・・

 上に書いたのは実際に見た夢。
 さて、この夢にはひとつ問題がある。とてつもなく長い映画を、自分は最初にいつ見たのかということだ。たしかに見たことはおぼえている。仕方なくトイレに立ったので見てない部分ができてしまったことも具体的な光景としておぼえている。
 しかしながら、夢のなかでそんなに長い映画を見たあとで、また同じ映画を同じ夢のなかで見るなんてことがあるだろうか。本当は「以前に見たことがある」という記憶だけがあって、実際には見ていないのではないか。
 だって、たしかに見たぞ。どこで誰といっしょに見たのかも言える。トイレに立ったときのこともおぼえている。あれは映画の後半、全体からすると7割ぐらい進んだところだった・・・・・・と、自分のうちにある記憶の感触の本物らしさ、確からしさにこだわるなら、そういうことになる。だが、その記憶の本物らしさ、確からしさじたいが夢によって創り出されたものだったら。

 映画ではスケジュールの都合によって「過去のシーン」を「現在のシーン」より後に撮影することもある。設定的には「過去」だが、それは現在のシーンよりも後に創り出されたものだ。
 夢もこれと同じようなことが起こる。夢の中で過去の光景を思い出す。しかしそれは思い出しているまさにそのとき創作されつつある光景なのだ。思い出した光景はいかにも「過去」らしい感触をもっているが、「過去」らしさじたいも夢による創作なのだ。
 現実(覚醒時)の場合は、実際に目の網膜を通して見る光景と脳裏に思い描く光景の区別がはっきりしているためそれらを混同することはまずめったにないが、夢における光景はどれも網膜を通したものではなく、「見ている光景」も「思い出した光景」も脳裏にのみ展開される光景である点は同じ。そして、「思い出す」という行為、「目の前のものを見る」行為、時間的な「古さ」や「新しさ」の感触、これらがみな脳の作業としてはおそらく同じ工程(つまり夢をつくりだす工程)によって生産されるため、新しく脳裏に描き出された出来立てほやほやの光景であるにもかかわらず、本人はそれを記憶からひっぱりだしてきた昔の光景と認識してしまうことがある。巧妙にも、設定にあわせて時間的な「古さ」の感触も付随して同時生産されるからだ。
 また、そのように認識してしまっても夢としては特に問題がない。現実(覚醒時)においては、記憶の誤認識は物的証拠や他者の証言などによって辻褄の食い違いを引き起こすが、夢にはそもそも物的証拠もないし他者(イメージで創作されたのでない本当の他人)も存在しないから、記憶の誤認識がいくら起こっても何ら不都合には陥らない。仮に不都合があっても、その不都合じたいも夢特有の辻褄に組み込まれていく。

〔つづく〕



デジャ・ヴュ仮説

 上の文章で書いたように、夢は景色や行動だけでなく、時間的な「古さ」「新しさ」の 感触までも捏造するのだとすれば、デジャ・ヴュといわれる現象にもひとつの説明の仕方があるように思える。
 デジャ・ヴュは「今見ている光景を前にも見た」「今していることを前にもした」との 実感があるにもかかわらず、思い出してもそれに該当する過去の記憶がみつからない、と いう現象だ。ふつうそれは、「今見ている(している)こと」と、脳のどこかに置き忘れられた記憶の断片とが、知らず知らずにリンクして引き起こされるのだと説明さ れることが多い。あるいは、忘却した夢の中で同じことを見た(した)のだったかもしれない、と 考える人もいる。
 いずれも、「今」と同じような「過去」がどこかにあって、それを忘れているだけとい う考えだ。「今」が初演であるとは実感できない以上、思い出せないにしても初演に該当する「過去 」は必ずどこかにあるのだと考える。
 しかし、思い出せないのは本当に忘れてしまったせいなのか? そうではなくて、単純に、初めか らそんな「過去」などないからでは? 「今」がまっさらの初演であるのにもかかわら ず、何かの具合でそれを過去の再演であるかのように錯誤しているだけかもしれないではないか。
 またもや映画にたとえると、映画を観ていてあるシーンで画面がセピア色に染まったら 、人は自動的にそのシーンを「過去の出来事」の再現シーンだと解釈する。セピア色=古 い過去というのがお約束だからだ。しかし、何かの間違いでたまさかセピア色めいたフィルタ がかかっただけという可能性も(たとえば宿酔いの映写技師が吐いた茶色いゲロがフィル ムを染めてしまったとかで)、絶対にないとはいえない。その場合、映画を観ている人は 紛れもない「現在」のシーンを目の当たりにしながらそれを「過去」再現シーンだと錯誤しているこ とになる。
 それと似たようなことが脳で起きているのだとしたらどうだろう。「前に見た」という 実感の根拠を記憶という素材庫の中にさがすのではなく、実感を生み出すシステムそのもののエラーを疑ってみ るわけである。
 夢の中で感じる「過去らしさ」はあてにならないということをすでに書いた。夢の中で そうした時間感覚の錯誤が起きるということは、人の脳はそうした錯誤を(わざとにせよ、ミスにせよ)起こしうるシステ ムで出来ているということである。脳がそのようなシステムで出来ているのであれば、眠 って夢を見ているときだけでなく、目覚めているときにも錯誤=エラーが起きる可能性が ないとはいえない。
 完全に覚醒した状態で、あらゆる物理的、五感的な手がかりが間違えようもなく「今見 ている光景」「今やっている行為」であることを証拠づけているにもかかわらず、脳内の時間 的「らしさ」感覚だけが錯誤している――通常はそこに付与されなければならない「現在 らしさ」の感触が何かの手違いで「過去らしさ」とすりかわっている――という脳シ ステム上のエラーは、めったにあっては困るが、ごくたまに(しかも一時的に)なら充分にあ りうることに思える。
 もっと細かくいうと、「過去らしさ」が(映写技師のゲロのように)力ずくで「現在らしさ」を追い出しその座を奪ったので はなく、「現在らしさ」の失効こそがすべての原因であり、そのエラーを糊塗するための応急処置として「過去らしさ」が顔を出すのかもしれない。もしそうなら、「前に見た」気がすることよりも、「今初めて見た」気がしないことのほうに注目すべきなのではないか。現在のことなのに「現在」の味がしないことが問題なのだ、かわりに捏造された「過去」の味が問題なのではなく。
 以上の考えに基づいてデジャ・ヴュの発生過程を推測してみるとこうなる。
通常、目覚めている間は持続しているべき「現在らしさ」感覚が、何かの拍子に一時的に失われる
                 ↓
失われた時制感覚の真空を埋めるべく、当座の代替物として「過去らしさ」が置かれる
                 ↓
その結果、目が「今見ている」ものを脳(の時制感覚)は「前に見た」ものと感じる
                 ↓
そのままだと目の証言と脳の実感が食い違ってしまうため、心理的辻褄合せにより「今見ている」ものを「前に見た」との文脈修正がなされる
                 ↓
こうして、本当は一度しか起きていないことが「今」と「前」と計二度起きたように錯覚される
 と、このような心理的反応もからんだプロセス処理があまりに素早く瞬間的に行われるため、人は「現在らしさ」失効という根本原因よりも、「前にも見た」という偽りの修正印象のほうに関心を奪われてしまう。
 ただし修正されたといっても完全にエラーが糊塗されたわけではなく、偽りの印象が指し示す「過去」がどこをさがしてもみつからないという穴は残り、これをして人は何か辻褄の合わぬような不思議を感じることになる。

〔つづく〕